『たかさんと私』#2 「向き合う」ということ

まえがき〜第5話

その日は朝から、施設の事務所でパソコンのデータ入力作業をしていました。事務所と言っても、閉じられた空間ではないので、ご利用者さんが過ごす大部屋や玄関を見渡すことができます。

『ぴーすてらす』を利用しているご利用者さんは約20名。パソコンに向かっていても、挨拶の声で誰が来たかがわかります。送迎車は一度に到着するわけではないので、誰が来たかを頭の中に入れながら作業していました。

しばらくすると、玄関周辺がざわざわし始め、「たかさんが送迎車から降りる時に怪我をした」という情報が耳に入りました。玄関周辺はにわかに騒がしくなり、他のご利用者さんにも動揺が広がりつつあるのがわかりました。

たかさんの受診やご家族さんへの連絡などで、一気に慌ただしくなっていく施設内。それに加えて、周囲の空気に人一倍敏感なご利用者さんのケア、どんな状況でも待ってくれない日常の介護業務。

誰ひとり冷静に行動できる人がいなかったことだけは鮮明に記憶しています。

その時、私は動けませんでした。何を考えて、どのように行動したのかはっきりと思い出せません。しかし、1つ言えることは「たかさんが怪我をしたという事実から、たとえ一瞬でも目を背けた」ということです。

「たかさん、膝蓋骨骨折により入院」

その一報が届いても、私は動力の切れた機械のように立ちすくむばかりでした。

たかさんは、自分の気持ちを伝えることが極めて得意ではないため、昼夜を問わず支援が必要です。また、たかさんへの伝え方に関しても工夫が必要です。

就業規則に守秘義務がある関係で、詳細を語ることはできません。ですが、『ぴーすてらす』として「日中、職員が日替わりで支援に入る」という決定が出されました。

意思疎通が極めて苦手なたかさんに、日替わりで支援に入る職員が、彼のことをしらない病院の職員さんと、うまく連携を取れるはずがない。

結局それを口にできないまま、もやもやした気持ちを抱えて帰宅しました。そしてその日の夜、いつものように冷蔵庫を開け、買い置きしてあった缶チューハイを一口呑んだ瞬間。

「不味い」

飲み慣れたはずのお酒が、今まで飲んだことがないほど不味く感じました。体調が悪いわけではないので、それが原因ではなさそうです。

考えられるのはただ1つ、たかさんへの支援方法が間違っていると言い出せないまま帰ってきてしまったことです。

これ以上目を背けるわけには行かない。現場に居合わせなかったからとか、そんな言い訳もしたくない。責任者でもなんでもないけれど、自分にできることをやるために、たかさんに気持ちを伝えよう。

そう心に決めて、翌日上司に自分がメインで支援に入ることを伝えました。上司も、日替わりでの支援には問題があるが、誰かに声をかけるわけにはいかないと悩んでいたらしく、私がたかさんの入院時のケアを担当することに、協力を惜しまないことを約束してくれました。

たかさんの支援に入ろうと決心したきっかけが「缶チューハイが不味く感じたから」だったとは…さすがに言い出せないまま、もうすぐ10年が経とうとしています。

さて、実際に私が担当しますとは言ったものの、何かノウハウがあったわけでも、たかさんと何の問題もなく意思疎通が取れていたわけでもありません。あるのは「何があっても退かない」という気持ちだけ。そんな、すべてが手探りの、病室でのケアが始まります。


▶︎ 次回(第3話)へつづく

#3 申し訳ない気持ちが過ぎて


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#1 普段は意識しないクラスメイト

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