『たかさんと私』#9 私よ、顔を上げて前を向け

第6話〜第10話

ご家族さんへの引継ぎのために書いていた記録を改めて見直してみると、当時の対応がいかに予期せぬものだったかがわかります。

たかさんのことに関しては、記録を見返せば記憶と突合できることがほとんどですが、この時に限って言えば記憶がかなりあいまいです。

思い出そうとしても思い出せない部分がたくさんありますが、あの日は病室の前まで重苦しい空気が漂ってきていたことだけは鮮明に覚えています。

6月の終わりごろ、順調に回復していたと思われていたたかさんの膝が大きく腫れてしまいました。診察の結果、患部が化膿してしまう化膿性膝関節炎(かのうせいしつかんせつえん)で、緊急の処置が必要とのことでした。

あの時のショックは忘れられません。実はその3日前から主治医の先生と相談して、少しずつ日中活動を増やしているところでした。

病棟のナースステーションの向かいが、「デイルーム」と呼ばれる共有スペースになっています。

大きなテーブル、歩行訓練用の平行棒、畳のスペースなどがあります。ここで、パズルや絵画などを楽しんでもらうことにしました。

パズルも絵画も『ぴーすてらす』で実施していた、たかさんにとって馴染みのある活動です。

たかさんはクレパスなどを手渡すと、グルグルと円をえがくように絵を描いてくれます。色を変えて繰り返せば繰り返すほど、線の密度が濃くなり、画用紙がグルグルで満たされていきます。

頃合いを見計らって声をかけ、描き終わった絵にタイトルを付けたら活動終了です。

介護記録に「ちょっと切ない金曜日のくまちゃん」という作品ができました。と書いてありました。
…タイトルは完全に私がつけたんですが、一体どういう流れでこのタイトルになったのか、思い出せませんでした。

たかさんの緊急処置はそれから間もなくのこと。

ベッドから車いすに乗り換えて、デイルームに散歩に行けるようになったのに…
一緒に絵を描いたり、パズルができるようになったのに…

処置が終わった翌日、いつもの付き添いのために病室に入った私の目に飛び込んできたのは、化膿した液を抜くためのチューブが膝に入った状態のたかさんでした。

「ほんの少し広がった世界が、もとに戻ってしまった」

お母さんとの引継ぎを終え、たかさんと2人になったとき、悲しさなのか悔しさなのか、よくわからない感情があふれ出して涙が止まりませんでした。

処置前後の記録の字が、ところどころ震えています。どれだけ心が乱れていても、たかさんを支える者として、記録だけはつけようとしていたんだと思います。


▶︎ 次回(第10話)へつづく

#10 嫁さんの好きがたかさんを救う!?


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#8 広がっていく人の輪

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